由比

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更新日:
 2012年1月25日



◎由比(2011年5月8日)

 静岡県の由比と言えば、桜エビで有名です。2008年10月までは、静岡県由比町でしたが、2008年11月1日に静岡市に合併され、現在では静岡市清水区になっています。JR由比駅前を通っている旧東海道は、「由比桜エビ通り」と名付けられて、大きな桜エビの看板が出迎えてくれます。
 日本国内で獲れる桜海老は、100%、この駿河湾産だそうです。由比漁港と大井川漁港が主な水揚港で、漁が行なわれるのは春(4月〜6月)と秋(10月11月)の年2回です。6月11日〜9月30日までは桜海老の繁殖期のため、禁漁となっているそうです。
 由比に行けば、生桜海老、茹で桜海老など、桜海老自体も楽しむことができますが、酢の物、釜飯、そばなど、様々な桜海老料理を食べることができます。

 由比は、東海道53次の16番目の宿場として昔から栄えていた場所です。天保年間の記録によると、由比宿には本陣(大名、公家、幕府役人、僧侶などの貴人の宿舎)1軒と脇本陣1軒、旅篭屋が32軒あり、相当な賑わいを見せていたようです。弥次さん喜多さんで知られる「東海道中膝栗毛」の文中でも住時の賑わいぶりを伝えています。

 現在の由比にも、当時の面影を残す所があります。旧由比町ではこの本陣屋敷を整備し、「由比本陣公園」として開設しました。本陣屋敷とは、参勤交替などの際、本陣を宿泊させるための屋敷です。由比宿は小さな宿で、この1軒だけが本陣でした。屋敷の広さは、間口33間(約60m)、奥行き40間(約73m)、面積は1,300坪(4,300平方メートル)あります。
 この地に由比宿が定められたのは慶長6年(1601年)、徳川家康によって伝馬36匹の提供を命じられたことが発端だそうです。その後、大名等の休泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場などが整備されていったそうです。
 この場所に本陣が置かれたのは、由比本陣家の先祖である由比助四郎光教が永禄3年(1560年)に、主君である今川義元とともに「桶狭間の戦い」で討死にし、その子である権蔵光広が帰農して、この地に永住したためだそうです。それ以来、由比本陣家は連綿と受け継がれ、当代の由比宏忠氏に至っているそうです。
 由比町は平成元年、当主の理解を得て、この本陣屋敷跡地を購入し、町民のために由比本陣公園として整備しました。また、敷地内に町民文化の振興と町の活性化のために「東海道広重美術館」を開館しました。

 また、由比正雪の生家と伝えられている染物屋、「正雪紺屋」が、この「由比本陣公園」の目の前にあります。江戸時代初期から十八代、400年も続いている現役の染め物屋さんだそうです。正雪紺屋では、季節を題材にした手拭やハンカチ、手作りのバッグなどを取り扱っています。藍甕、神棚、染物道具、用心篭中などの道具や仕事場は昔のまま残されており、当時の歴史を物語っています。また、裏庭の祠には、正雪を祀った五輪塔があります。
 正雪は、駿府宮ケ崎町の岡村弥右衛門のニ男として生まれたそうです。(由比の生まれとの説もあるようです。)正雪の父は農業の傍ら紺屋をしていました。正雪の幼名は久米之助と言い、勝気で頭の良い子だったそうです。臨斎寺の和尚について学問を教わったり、町内の浪人について武芸や学問を教えてもらっていたようです。正雪が17才の時、江戸の親類の菓子屋に奉公に出たようです。その頃、牛込に楠不伝と言う楠木正成の子孫だという老人がいて(楠木正辰とも言われているようです)、そこの門人になり、楠流の軍学を学んだそうです。
 正雪は、そこで才能を発揮し、やがてその娘と結婚し、婿養子となりました。そして神田連雀町に「張孔堂」という軍学塾を開きました。「張孔堂」という名前は、中国の名軍師である張良と孔明にちなんだ名前です。道場は中々の評判で、一時は3000人もの門下生を抱えていたとされています。また、門下生の中には大名の子弟や旗本なども多く含まれていたとのことです。
 この頃、幕府では三代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれていました。関ヶ原の戦いや大坂の役以降、多数の大名が減封、改易されたため浪人の数が激増しており、再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていました。そうした浪人の一部には、自分たちを浪人の身に追い込んだ「御政道(幕府の政治)」に対して批判的な考えを持つ者も多く、また生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も存在しており、これが大きな社会不安に繋がっていました。
 正雪は、そうした浪人の支持を集め、張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになっていったようです。そのような情勢下の慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子徳川家綱が継ぐことになりました。次の将軍が幼君であることを知った正雪は、これを契機として浪人救済を掲げた幕府転覆を謀ったようです。
 計画では、まず宝蔵院流の槍術家である丸橋忠弥が江戸を焼討し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取るというものでした。これと同時に、京都では由比正雪が、大坂では金井半兵衛が決起し、その混乱に乗じて天皇を擁して高野山か吉野に逃れ、そこで徳川将軍を討ち取るための勅命を得て、幕府に与する者を朝敵とする、という作戦であったようです。
 しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告によって、計画が事前に幕府に露見してしまいました。慶安4年(1651年)7月23日に、丸橋忠弥が江戸で捕縛されました。正雪は、その前日(7月22日)に、既に江戸を出発しており、計画が露見していることを知らないまま、7月25日に駿府に到着しました。駿府の梅屋町の町年寄、梅屋太郎右衛門方に宿泊したものの、翌26日の早朝、駿府町奉行、落合小平治の手の者に囲まれ、仲間8人と共に自刃して果てました。享年47才だったそうです。
 その後、7月30日には正雪の死を知った金井半兵衛が大阪で自害、8月10日には丸橋忠弥が磔刑となり、計画は頓挫しました。この事件は、由比正雪の乱(慶安事件)として語り継がれています。
 正雪の首は安倍川畔にさらし首となり、その後、誰かが、その首を寺町の「菩提樹院」に埋めたそうです。「菩提樹院」は、その後、沓谷霊園(静岡市葵区沓谷5-1344)に移転し、正雪の「首塚」も一緒に移転したそうです。
 江戸幕府では、この事件と、その1年後に発生した承応の変(浪人、別木庄左衛門による老中襲撃計画)を契機に、老中阿部忠秋や中根正盛らを中心として、それまでの政策を見直し、浪人対策に力を入れるようになりました。すなわち、改易を少しでも減らすために末期養子の禁を緩和し、各藩には浪人の採用を奨励しました。これにより、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくことになり、奇しくも正雪らが掲げた理想通りの世になっていったようです。




由比駅を出て右に曲がると、こんな感じです。



本陣公園です。









正雪紺屋です。



中は、こんな感じです。





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