鰻丼のお話

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更新日:
 2013年9月18日



◎うな丼(2013年9月18日)
 うな丼は、どんぶりの元祖と言われているのだそうです。江戸時代には、屋台で鰻のかば焼きが売られていたようですが、鰻丼になるには、少し、時間がかかったようです。
 うな丼が誕生したのは、江戸時代の文化年間(1804年~1817年)とする設が一般的だそうですが、その由来には諸説あるそうです。
 青葱堂冬圃の随筆、「真佐喜のかつら」(1857年、安政5年)には、「鰻めしを始めたのは、江戸の四谷伝馬町三河屋に勤めていた男が、暇をとった後、ふきや町の裏長屋で売り始めた。珍しいので、人と一緒に行ってみたところ、丼のご飯の間に鰻を挟んだもので、64文で売られていた。このうな丼が大繁盛した為、他店も皆、真似をした。価格は、年を経て高価になった。」と記載されているそうです。
 また、宮川政運が明治18年(1885年)に記した「俗事百工起源」には、うなぎ好きな堺町の芝居金主、大久保今助が始まりと書かれているそうです。大久保今助は、江戸時代後期に江戸、日本橋堺町で芝居の金方(資金を出す人)をしていた人で、鰻が大好きだったことは確かようです。しかし、うな丼の発祥には、ここからも2説があるようです。
 その一説は、今助は鰻が大好物で、芝居小屋で芝居を見ている際、毎日、取り寄せて食べていたそうです。当時は、出前をしても冷めないように、糠を温めて保温して配達していたようです。ところが今助は、糠を取って、鰻を食べるのが面倒だったため、直接、炊き立て御飯の上に鰻を乗せるように指示したようです。この方法は、鰻の蒲焼きが冷めずに、また、御飯もとても美味しかったため、本人も大満足だったようです。これが「うな丼」の始まりとする設です。今助は、当時、有名人だったため、今助が食べている「うな丼」を真似して食べるものが増え、大流行して、一般に広まったという説です。
 今助発祥のもう一説は、茨城県の牛久沼に関連した説です。今助が、故郷(現在の茨城県常陸太田市)に帰る途中、水戸街道を進み、牛久沼まで来たそうです。この時、茶店で渡し船を待っている時に鰻が食べたくな り、今助は蒲焼きと丼飯を頼んだそうです。ところが、注文した品が出てきた時、丁度、「船が出るぞー」との声が聞こえ、今助は丼と鰻が乗った皿を手に持ち、丼飯の上に鰻の蒲焼きの乗った皿を逆さにかぶせて船に乗り込んだそうです。そして、対岸に着いてから、土手に腰をおろして、手に持っていたドンブリ版と鰻を食べたところ、蒲焼きが飯の温度で蒸されて、より柔らかくなっており、また、飯には鰻のタレが浸み込んで、今まで食べたことのないくらいに美味しかったそうです。これが鰻丼の発祥とする説です。
 この説には、さらに鰻丼が広まった由来に二説があるそうです。その一説は、今助が、田舎で用を済ませ、江戸に帰る際、行きがけに鰻を注文した茶屋に食器を返しながら、その話をしたところ、その茶屋が「鰻丼」を出すようになり、その美味しさから、水戸街道の名物になったという説です。
 もう一説は、今助が江戸に戻り、芝居小屋で芝居を見る際、この鰻丼を売り出すようになり、江戸中に広まったという説です。
 現在、茨城県竜ケ崎市は、この大久保今助が発明した鰻丼が生まれた地としてアピールしています。江戸時代、水戸街道を江戸方面から来て、北上するには小貝川を渡るルートがあります。真っ直ぐ、水戸街道を陸路で進むよりも、小貝川沿いに北上して牛久沼を船で渡ると距離を短縮することができ、便利だったようです。
 このことから大久保今助も、この小貝川を渡るルートを使って牛久沼を渡ったと考えることができます。この渡しの距離から推測すると、船の上にいる時間は、10分ほどだそうです。これは、上述した鰻のかば焼きを御飯の上に載せて船で渡り、陸に上がって食べたと話が本当であるとすれば、丁度、御飯の熱さで、かば焼きが丼全体になじんで特別な味になっていたというのは、納得できる話ではないか、というのです。
 この説を裏付けるのか、牛久沼近辺には、創業数十年以上の鰻屋さんの老舗が並んでいるそうです。龍ケ崎市の牛久沼沿いは、知る人ぞ知る「うな丼発祥の地」で、国道6号線の牛久沼湖畔は、何十年も続くうなぎの老舗が軒を連ね、うなぎ街道と呼ばれているそうです。
取手方面から国道6号線を北上すると道路の両側に桑名屋、伊勢屋、水神屋、鶴舞家、小名浜屋、そして山水閣と続くうなぎ料理の専門店。狭い地域で味を競い合っているだけあって、いずれ劣らぬ名店ぞろいで、東京を初め、関東近県からお客が集まっているそうです。ちなみに、牛久沼は隣の牛久市と勘違いされやすいですが、行政区では龍ヶ崎市です。
 また、これとは別に天保年間(1830年~1843年)に浜町河岸に出来た、大黒屋が始めたと言う説もあるそうですが、こちらの詳細は不明です。
 なお、江戸時代の鰻丼は、丼に盛った御飯に、蒲焼きを乗せただけのものだったようで、冷めにくいようにとか、蒸らすため、という意味での丼の蓋を乗せるようにしたのは、明治に入ってからという話もあるようです。
 また、これらよりも古く、天明年間(1781年~1789年)の初め頃、上野、山下仏店の大和屋で蒲焼を販売していた頃は、お客の方が御飯を持っていったという話もあるようです。これは、かば焼きを売る店は、多分、屋台で、かば焼きのみを販売しており、御飯を売っていなかったということです。これは、鰻丼の発祥とは全く関係がない話ですね。






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